2017年6月18日 (日)

過去・現在・未来、円環し重なり合う時間。映画「メッセージ」

巨大な宇宙船が突如、地球に同時多発的に現れるハリウッド映画。

その宇宙船の形がせんべい菓子の「ばかうけ」に似ていることもあり、ネットではネタ的に話題になっている。「でもハリウッドの宇宙船ものかあ。いかにも中身ゼロっぽいな」と思っていたけれど、実際に観てみると哲学的というか、奥が深いのですよ。謎解きみたいで最後まで集中して楽しめた。

ストーリーは省くが、宇宙人には時制、つまり過去―現在―未来という時間の流れがない、というのが作品の大きな特徴だ。それで文字は丸い輪っかの形をしており、水墨画のようでもある。円環のように時間がぐるぐる回っているようなイメージもある。

時間は過去から現在、そして未来へという一方向の流れがあるというのが一般的な時間の理解だ。ところが宇宙人にとって時間は過去・現在・未来が重なっている。だから宇宙人の言葉を理解することで人間も未来が見えるようになる・・・というのが、作品世界の骨格にある。

言葉は思考や世界観を体現している、との仮説があるそうだ。その説に従えば、宇宙人の言葉を理解すれば世界はそのように見える、というアイデアである。それで、映画を見ているうちに、「過去・現在・未来が重なり合う時間」が実在しているような気になるのが面白く、よくできているなあ、と思った。

もし本当に、現在の中に過去と未来が重なっているとしたら・・・。未来を選び取ることだってできるのではないか? 確か「君の名は。」にも似たようなプロットがなかったか。

だとすると、世界で同時多発的に「時制のない時間」というアイデアが面白がられる背景があるはずである。気候変動、資源の減耗、環境破壊、排外主義やテロの台頭などなど。文明、人類がこれからも危機を乗り越え、存続していけるのか。

もし過去・現在・未来が重なっているならば、未来のために今を犠牲にするのではなく、過去に縛られるのでもなく、「今を生きる」ことが、より望ましい未来につながっていくのではないか? そんなメッセージを作品から受け取った気がする。

2017年6月13日 (火)

都市に慣れるのはやめました

今日、仕事で都心に出たが、疲れた。そもそも雨模様の天気だったし、何より人の多さと都会の空気になじめない。理由もなくいらいらとする。帰りの中央線が信号故障で遅延していたのが追い打ちをかけた。

週休3日制にしてから、休みの日は山に登ったりサイクリングに行ったりもするが、家で好きな本を読みながらのんびり過ごしていることも多い。以前よりはゆったりと過ごすようになった。

都市部に出て疲れるのは、やはりせわしないからだろう。家にいるときとのギャップが大きい。引きこもりの人が外に出たがらない気持ちってこんななのか。違うかもしれないが、何となく分かる気もするのだ。

都市のせわしなさを刺激と感じて楽しめるのであればいい。けれども僕には人混みとか、都心の空気はやっぱり苦手だ。毎日のように都心に出ていればじき慣れるだろうが、無理して大都市のテンションになじむことはない、と割り切ることにした。

ところで都心部を走る電車内は広告であふれていて、全く落ち着かない。立っていても目線の高さに広告があって、いやでも視界に入ってくる。ぼけーっと窓の外を眺めることさえ難しいのには困ったものだ。

一方、例えば立川から西の中央本線の車両とかになると車内広告の量がぐっと減って落ち着く。その上ボックスシートなら、外の景色をのんびり眺めていられるので申し分ない。

2017年6月12日 (月)

見落とされる公助――『貧困クライシス』(藤田孝典著)

副題は「国民総『最底辺』社会」、帯キャッチは「もう誰も逃げられない 貧困が貧困を生む衝撃の現実」。おしっこをちびってしまいそうな迫力だ。

しかしこれらの言葉がハッタリや単なる脅し文句でないことは、本書を読めばすぐにわかる。所得の減少と雇用の不安定化で進んだ中流家庭の貧困化。長時間労働で疲れ切っているのに収入は増えない。家賃や外食費、医療費がかさみ、年金の支払いもままならない(低所得者には免除制度があるが、知らない人も多い)。

定年を迎えても生活費のために働き続ける人がいる。また、現役時代に貯金して老後に備えていた人でも、離婚や病気などをきっかけに貧困に転落していく。生活能力や近所づきあいなどを犠牲にして働いてきたために孤独におちいる人もいる。

全く救われない話だが、これらは個人の努力だけではどうにもならない、という点がポイントだ。『魂の退社』では「会社は卒業すべきもの」と説いている。それができる人はそうすればいい。セルフブランディングして自立して食べていければ、それもいい。しかし会社で働くしかない人もいる。

ごく単純に言えば、会社で働いて生計を立てている人を支える社会基盤が揺らいでいるのだ。自助努力は大事だとしても、それは責任の半分に過ぎない。社会として一人一人の生活をどう支えるのか、という問題意識が今の日本では弱いのではないか。本書を読んで強く思う。

例えば高い家賃を払わなくて済むよう、空き家の活用や家賃補助などが必要だろう。そもそも公的に住宅を保障するしくみが極めて弱い(公営住宅の抽選倍率を見よ!)。自己責任(自助)だけ問題にしても、結局は社会全体が疲弊し沈んでいくに違いないし、現に今そうなっているではないか。

社会保障の原資は税金だ。「貧すれば窮す」というが、安心がなければ自助もしようがない。誰もが安心して暮らせるような社会は自助やイノベーションの前提だ。そういう社会的合意がつくられていく必要がある、と思った。

2017年6月 2日 (金)

お金から「自由」になった人の境地――『魂の退社』(稲垣えみ子著)

図書館でリクエストしてから半年待ってようやく借りられた本。著者は元朝日新聞記者で、論説委員や編集委員まで務めた。著書で本人は謙遜しているが、キャリアを重ねてきたエリート記者といって差し支えないだろう。面白くかつ興味深かったので二度読みした。

トレードマークは、記者という堅い仕事にはいささかミスマッチなもじゃもじゃのアフロヘア―。アフロにしてから人にモテるようになったという。つまりは他人との垣根が下がったのだが、これが著者には「会社に依存しなくても人は生きていけるのでは?」との気付きのひとつになったのだそうだ。

アフロの話はさておき、大企業に勤めて高給を得るという「人もうらやむ」境遇にあって著者は、派手な消費を満喫する一方でこう考えた。このさき会社に依存したまま定年を迎えて、激減した収入を憂いるだけの老人になるのは嫌だ。社内の出世競争に敗れた時、それにわが身が耐えられるとも思えない・・・。

本書を読むと新聞記者の世界も壮絶なものがあると感じる。長時間の拘束、仕事ぶりの評価へのプレッシャー、同期が先に出世し、後輩の記者に追い抜かれる屈辱感、などなど。私も業界紙記者を逃げるようにして辞めたが、軟弱な私が3か月で音を上げたのもある意味当然のことだったなあ・・・と変なところで納得してしまった。

さて、にわか金満生活を「このままでは行き詰まる」と自省した著者は、香川への転勤などをきっかけに「お金を使わなくても幸せに生きられる」よう自己改造に着手する。有り余るモノに囲まれた今、「ある」ではなく「ない」ことの中に豊かさがある、と著者は気づく。

そして3・11と東電原発事故をへて、「電気があるのが当たり前」ではなく「電気はない(のが当たり前)」と視点をひっくり返し、少しずつ家電を手放していく。すると、それで不便ということはなく、それでも何とかなってしまった。「家電を手放して何とかなったように、会社を手放しても何とかなるのでは」。それで著者は50才を迎えて本当に会社をやめた。

著者が会社を辞めるまで、そして会社を辞めてから気づいた一連のことは、いわゆる「ダウンシフト」や「ナリワイ」と大きく重なる。経済成長と大量消費が行き詰まった今、会社でやりがいのある仕事ができる保証は限りなく低くなっている。この認識は鋭い。

会社は自分を成長させてもくれるけど、いつかは会社を卒業しなければならない。会社は一人の人間として生きていく力を身に着ける修業の場であって依存対象ではない、と著者は考えている。これも、ごく真っ当な認識だろう。

では人はなぜ安定を求めて会社で働くのかというと、結局のところそれは金に支配されやすい人間の弱さのゆえだ。しかし著者は、「お金は追い求めると逃げていくが、お金のことなどどうでもよくなると、お金の方から近寄ってくる」と言う。

この気づきは面白い。お金から自由になるとは、蓄財ではなく、生き抜く力を身に着けるということだ。つまりそれは家事をしたり世間話をしたり家の修繕ができたりとか、全く違う業種に好奇心を持って飛び込んで行ったり。それらをフットワークも軽く出来ているとき、人はお金から自由になっている。

ここに本書の普遍性がある。エリートのダウンシフトという限定した話ではない。人生とは、ロールプレイングゲームで主人公が経験値を高めていくように、いろいろ経験して生き抜く力を身に着けることなのだ。

2017年5月24日 (水)

みんな普通に休んでる

今日は奥多摩の大岳山に登ってきた。御岳山ケーブルカーで上がって6時間。静かな山歩きを満喫した。

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ぐんぐん上る。

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右側のピークは日の出山。

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樹齢千年のケヤキ。

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ぬぼーっとした狛犬。

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標高1267m。これから長い尾根下りがはじまる。

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ふもとが近づいてきた。

しかし誰もいなかったかというとそんなことはなく、平日でも山歩きを楽しんでいる人は意外といる。中高年の人はもちろん、若い人もだ。ふもとからはバイクの音が聞こえる。ツーリングを楽しんでいるのだろう。カヌー教室にも人がいた。

実のところ、週休3日制で平日に休みを入れることに、どこか後ろめたさを感じていたのは事実だ。ところが、こうして平日に山に来てみたら、同じように山歩きやバイクや川遊びなど、休みをエンジョイしている人が結構いるではないか。

なあんだ、平日に休むなんて別に普通じゃん。それでも平日の行楽地は人が少ないから人混みに煩わされずに楽しめる。休むなら土日もいいけど平日ですよマジで。みんなもっと気軽に有給休暇を取るといいと思う。

2017年5月23日 (火)

週休3日制で変わったこと(その2)

昨日の続き。

●妄想する時間が増えた

仕事に直結しないことで、「あれが出来たらいいなあ」「今度はどこそこに行ってみよう」「次の休日は庭の手入れをしようか、積んでおいた本でも読もうか・・・」というふうに、とめどなく考えを巡らせる。すると顔がニヤけてくる。緊張が和らぎ、いい感じでゆるんでいる兆候だ。そんな時間が以前よりは確実に増えた。

仕事のことばかり考えていると、どうしても「そのネタは記事になるか」「今月の売上はいくら」というふうに考えが傾きがちだ。視野が狭まっているのだ。まるでカネのために生きているみたいで、本末転倒である。

一方、妄想していると、判断の基準が「まず自分が楽しいか、やりたいと思えるか」にシフトしてくる。これが行動の動機になる。「売上目標必達するぞ!」と自己暗示するよりも、はるかに健全で健康的だ。

さて、こうして見てみると、私のフリーランスの10年、というか私のこれまでの人生がいかに「〜しなければならない」「〜すべき」というような「型にはめる」考え方に縛られていたかと思うのだ。

フリーランスは好きで始めた仕事だったはず。いや、「好きを仕事にする」はずが、「稼ぐために仕事する」に堕落していたのか。いずれにしても、自分の中の「好き」を置き去りのまま来てしまったのは間違いなさそうだ。

そしてこうも思うのだ。「好きなことなら寝食忘れる」というが、生活をおろそかにしたところで「好きに没頭」もあったものではない。たっぷり寝て、生活を楽しむ余裕をキープした上での「好き」ではないかと。

これは自分でも少し驚く結論なのだが、「好きを仕事に」もたいがいにせい、ということなのかもしれない。

2017年5月22日 (月)

週休3日制で生活に「ゆとり」が生まれた

週休3日制を始めて1週間。早くもいろいろな変化が出てきた。

●時間に余裕が生まれた

週休3日制にあたり、勤務時間を9時から17時と決め、この時間以外にメールやSNS等で仕事のやりとりは原則しないことにした。例えば、17時以降に来たメールは、翌営業日に返事するといった具合だ。

いつでも仕事上のやりとりを意識していると、仕事と生活の境目があいまいになり、精神が休まることがなく落ち着かない。これを改めた。

また、17時をその日の仕事の区切りとして(実際には19時くらいまで仕事していたりするが)、急ぎでない限り、その日の内に案件が終わらなくてもいいことにした。今までは原稿をとにかく書き終えようとするあまり、夜遅くまでパソコンを開くことも多かったためだ。

こうすることで、時間に劇的といっていいくらい余裕が生まれている。「今日の仕事、終わり!」とパソコンを閉じる解放感も味わえ、これが気持ちいい。

●家事を楽しめるようになった

時間に余裕が出来たことで、今まではどちらかというと面倒だった掃除や洗濯、料理などが楽しめるようになった。

心の持ちようでずいぶんと感じ方も変わるものだ。私は時々カレーを作るが、市販のルーではなくカレー粉や香辛料を使って作る。今日も晩ごはんのカレー作りに挑戦。隠し味にコーヒーや味噌、ヨーグルト、ジャムなどを入れてみる。毎回作るたびに味が変わって安定しないが、それも面白い。

朝のコーヒーが気分を劇的に整える話は以前書いた。毎日コーヒーを淹れるようになって、どうすればおいしく淹れられるか試行錯誤を繰り返している。粉の量、お湯を注ぐ速さ、注ぎ方。始めた頃はやたら薄かったり苦かったりだったが、最近は多少飲める味にはなってきた。まだまだ満足していないが・・・。

●音楽を聴くようになった

原稿を書く仕事を始めてから音楽を聞かなくなった。それは書くことに集中していると音楽が邪魔するからだ。以前買ったCDもあらかた手放した。

断捨離できて、それはそれでよかったが、時間が増え、家事を楽しむ余裕ができると、何か音楽を聴きたくなった。それで、携帯プレーヤーに残してあったポップスとかを聴きながら家事をするのだ。これが楽しい。

それでまたいろいろ聴きたくなった。ジャズとかJポップとか。CKB(クレイジーケンバンド)のアルバムをあれこれ聴いてみたい。そういえばレンタル屋もずいぶん利用してないや。

つづく。

2017年5月21日 (日)

「土地に杭は打たれても」立川・砂川闘争の現地を歩く

日本の敗戦後、東京・立川に米軍が進駐してきた。旧陸軍飛行場を接収してできたのが米軍立川基地。今のJR立川駅北口付近から昭和記念公園一帯が米空軍の基地だった。ちなみに立川のイケアとかはもろに基地跡地に建っている。

その基地を南北につらぬく滑走路の北側を拡張する米軍の計画に対して、砂川一帯(当時は砂川町)の住民が町ぐるみで阻止すべく決起したのが「砂川闘争」だ。今から62年前、1955年のことである。

日本国憲法の国民主権と平和主義にのっとり、非暴力に徹した反対運動に、警官隊は警棒を打ち下ろした。流血もいとわない国のやり方に国民の批判が集中。米軍は結局、拡張計画を断念し、横田基地に移転していった。

今日21日、当時を知る住民や市民が主催する現地見学会に行ってきた。小金井からは近くはないが、自転車でも行ける距離(だいたい50分くらい)。そんな場所で、歴史的な反基地運動が繰り広げられた。もちろん知識としては知っていたが、これまで現場をつぶさに見たことはなかった。

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国有地との境を示す防衛施設庁の標柱。今も19本が残る。基地拡張にむけた測量のため、国が杭を打ったなごりだ。

国が買収した土地はグラウンドなどに利用されているが、虫食い的に点在していて、地域全体で土地の利用や整備の計画を立てるのが難しいという。

一方、当時の面影を残す畑地もある。麦が青々と育っていた。元々この地は荒れ野だったが、江戸初期に玉川上水が開通。そこから分水した砂川用水を利用して農地の開拓が行われたのがこの一帯だった。

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荒れ野を豊かな田畑、牧草地にするのにかかった時間は約300年。かつて敗戦までは国の軍用地取得に住民は逆らえず、横柄な軍人のふるまいにも耐えていたという。

そして日本が戦争に敗れ、ようやく平和と民主主義の時代がやってきたと思ったら、国はその土地を「基地拡張」の一言で住民から召し上げようとした。苦労して育てた伝来の土地を奪われるのには納得できない。町が一丸となって拡張に反対したのにはそうした背景があった。

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立川基地跡地の旧滑走路にクサビが刺さったような三角形の土地がある。米軍移転後に住民に返還されたもので、現在は果樹畑だ。進駐した米軍は一帯をブルドーザーで整地して滑走路を造成。これに住民が「土地を返せ」と交渉し、住民の所有地であると米軍に認めさせた経緯がある。

そして明け渡しを求める裁判で、国との「和解」により土地は返還。これでもし住民が勝訴すれば、基地内の民有地の返還を認める先例となったはずで、そうなれば沖縄をはじめ、今ある米軍基地の存続そのものにも少なくない影響を与えたことだろう。

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滑走路跡の路面には米軍時代のペイントが残っている。

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旧砂川町役場跡には砂川学習館が建つ。ここには砂川闘争を記念した絵や当時の資料が展示されている。5月とは思えない炎天下の中、現地を1日歩いて、砂川闘争の歴史を肌身で感じることができた。

2017年5月20日 (土)

NHKアナと狸合戦ぽんぽこ

NHKが視聴者離れを食い止めようと番組改革を行っているが、ニュース番組もバラエティ風に演出したりして、アナウンサーも大変だなと思う。

■NHK「高齢者の性」特集に驚き 田原総一朗氏のツッコミも話題(J-CASTニュース)
http://news.livedoor.com/article/detail/13085406/


田原総一朗の容赦ないツッコミに武田アナが四苦八苦している様子が目に浮かぶ。国谷キャスターだったらどう切り返したか。いや相手が国谷氏だったら、田原氏も返す刀が怖くて、ここまで好き放題できなかったのではないか。

そういえば「おはよう日本」の高瀬アナも、なんだかどこか無理しているようだ。一方、あさイチで有働アナが生き生きしているのは、イノッチと柳澤解説委員とのコンボが見事にハマったからだろう。

一億総活躍とか生産性向上とかの掛け声に煽られ、みんな肩で息しているのが今日このごろだ。余裕が無いのにさらにパフォーマンスを求められる。適応できればまだいいが、そうでない人はどうなるのか。

ところで今年はJR発足30年だが、発足前後で国労組合員の大量首切り、配転が横行。絶望した組合員が相次いで命を絶つ、ということも起こった。

今は世の中全体が似たようなことになっていないか。

話を戻すと、今回のクロ現プラスの記事を読んでジブリ映画「平成狸合戦ぽんぽこ」のことが頭に浮かんだ。化けられるタヌキは知恵を絞って里山開発に立ち向かい、破れても変幻のスキルを生かしてしぶとく生きる。

一方、化けられない「並のタヌキ」は念仏踊りをおどりながら死出の旅に出るのであった。今思えば黙示録的シーンであったことよ。そのジブリで宮﨑駿が新作に挑むという。一体どんな作品になるのか。気になる。

2017年5月19日 (金)

足立区で生活保護費が過少支給

自治体サイトには生活保護制度について紹介するページがあるのが一般的だ。本ブログでも、東京都23区の各サイトでの生活保護要件記述について調査している。23区内でただ1つ、足立区だけは生活保護要件に関する説明ページが見当たらない。

■都自治体サイトの生活保護要件記述(区部その6)
http://saitoh-madoka.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-d79b.html


その後はどうなっているのだろうと思い、足立区のサイトを見に行って驚いた。要件記述が見当たらないのは相変わらずだが、何と保護費の算定ミスによる過少支給、および母子加算の計上漏れがあったというのだ。

■【お詫び】生活保護費算定ミスによる賠償の和解および母子加算の計上漏れに伴う対応等について(足立区)
http://www.city.adachi.tokyo.jp/seiho-sidou/sannteimisutotaiou.html

算定ミスでは約2万4千円の支給漏れがあり、しかもそれは提訴されて初めて発覚した。これを受けて区が調べると、他にも18件の算定ミスがあった。いずれも誤って収入と認定され、保護費が減額されたようだ。

さらに母子加算の計上漏れでは、実に78か月(6年半)、168万円の支給漏れが見つかった。

足立区は不正受給対策には力を入れる一方、算定ミスや計上漏れを放置し、適正な支給を怠っていたわけだ。こんな調子では、区内での漏給対策(生活保護基準以下で暮らしている人への支給漏れをなくすこと)はほとんど手が付けられていないのでは、と思わざるを得ない。

※追記:毎日新聞が報じている。

■足立区 生活保護費巡り算定ミス 20世帯・計250万円/東京(毎日新聞)
https://mainichi.jp/articles/20170428/ddl/k13/010/202000c

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