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2006年3月

2006年3月16日 (木)

地域ルポ・光が丘

『かつてここに飛行場があった −光が丘(東京都練馬区)−』

練馬区の北に位置する街、光が丘。

百八十六ヘクタールの広大な敷地に、都内屈指の緑地公園と、近未来都市を思わせる高層住宅街が広がるこの場所が、かつては陸軍航空隊の駐留する「成増飛行場」だったと聞けば、驚くだろうか。

私の住む谷原の隣、きらびやかで快適な都市生活の象徴の様な光が丘が、もとは軍事施設だった——。

往時を偲ばせる遺構や建物は、今も存在するのだろうか。現在の光が丘の航空写真を見てみる。カギカッコの形をした敷地は、言われれば飛行場の様に見えなくもない。

ついで飛行場当時の航空写真。畑の広がる農村地域に、滑走路がくっきりと浮かび上がる。畑地の中を戦闘機が離着陸する様子を、想像してみる。

太平洋戦争開戦の翌年、一九四二年。真珠湾攻撃で大打撃を受けた米国は、国民の戦意高揚のために東京空襲作戦を立案する。民間の競技飛行士だったジェームス・H・ドゥーリトル中佐を中心に、陸上でしか離着陸できない爆撃機B−25を航空母艦から発進させるための猛訓練が繰り広げられた。そして四月十八日、空母ホーネットから飛び立った十六機が日本上空に到達、各地を爆撃して死者四十五人、負傷者多数の被害を与えたのである。

開戦からわずか半年で、帝都上空が敵機に蹂躙された! 大本営は衝撃を受け、急遽防空態勢の強化を図る。皇居上空まで戦闘機が三分で到達出来ることが目指されたのである。成増に航空基地が建設される事になり、用地内農家八十戸が半ば強制的に移転を余儀なくされた。南北千二百メートルの主滑走路、東西に横風用の補助滑走路を擁する成増飛行場は、突貫工事の末に四三年十二月に完成。

しかし、四四年冬以降本格化するB−29爆撃機の来襲に、有効な反撃を与えることはついに出来なかった。一万メートルの高度を飛ぶ敵機に対して、まともに迎撃出来る飛行機を日本は持ち得なかったのだ。酸素ボンベはおろか機関銃さえ積めず、マイナス三十度の酷寒の上空で、飛行士が唯一なしえた戦法は体当たり攻撃だった。

その模様を撮影した当時の写真が残っている。飛行機雲を曳いて飛ぶB−29に、成増から上がった戦闘機が衝突した様子が見てとれる。恐らく戦闘機はバラバラに分解しただろう。対するB−29は煙を吐きながらなお飛んでいる。何という彼我の差!

その凄絶な光景に、私は言葉を失った。

四五年三月十日には、一夜に十万人の死者を出す東京大空襲が。東京は徹底的に破壊され、焼け野原となった。敗戦。成増飛行場は進駐軍に接収され、キャンプ朝霞で勤務する米軍人とその家族のための住宅「グラントハイツ」として、七三年まで使用された。

調べる内、飛行場北端だった所に戦闘機格納用の掩体壕(えんたいごう=シェルター)が現存する事が判明。早速訪ねた。

立ち並ぶ住宅の間をぬう路地の奥に、その掩体壕はあった。指摘されなければ決して気付かないが、一度目に留まればそれは確かな存在感をもって迫ってくる。

所有者の意向により訪問・撮影は遠慮してほしいと資料にあったが、私はいてもたってもいられなくなった。路地に入る。六~八十センチはあると思われる、分厚いコンクリートの天蓋の上に民家が建っている。壕はタクシー会社の物置として使われているらしく、雑多に物が積み上がる。壕内に目を凝らすと、闇の中には意外に広い空間が。その湿った闇は、現在までの時間の厚みと隔たりとを伝えている様だ。

所有者宅を訪ね、失礼を承知で敷地に入った非礼を詫びると、咎めるでもなく丁寧に応じて下さった。「ご覧の通り、雑然としてますでしょう。お恥ずかしいので、訪問はご遠慮願っているのです…。でも、時々資料を頼りに見に来る方は、おりますねえ。」取り壊すには家五軒が建つ費用がかかるとの事で、壕の上に家を建てた。その居宅の玄関から飛行場のあった方向を見渡すと、住宅地の屋根の向こうに光が丘公園の樹木が見える。壮絶な命の遣り取りが、ここであったのだ——。

近隣の農家の方にも話を伺った。当時を知る方はいずれも七十代後半に達している。離着陸する航空機の爆音が凄かったという。また、雪の日には近隣住民も滑走路の除雪に動員されたりもした。

かつて、光が丘は戦時態勢にあった。この地にとって「成増飛行場」とは、一体何だったのか。基地は何をもたらして、消えていったのか。

ある農家は私に「外の者に国の事は話せない」と言って取材を断った。単に警戒されただけなのかもしれない。しかし私は、目の前で爆弾が破裂したのでも、人が殺されたのでもないのに、この農民の一言に戦争というものの気配を濃密に感じたのである。

***

以上は、私が今通っている「編集・ライター養成講座」での課題「自分の住んでいる地域についてのルポ」の提出原稿だ。

四百字詰め原稿用紙五枚分。手書きの味を出そうとしたのだが、成功しているだろうか?

【追記】
3月25日の講義で、講師の岩本隼先生から以下の講評をいただいた。

★ベッドタウンの象徴のような光が丘団地は、戦争末期、B25の襲来に対応して急遽飛行場が建設された跡地だったという話を、よく調べて書いている。現在と当時の航空写真を見比べたり、掩体壕を見にいって所有者の話をきいたり、労を惜しまずに書いたことが判る文章です。

★学問の分野に「産業考古学」というのがあるのをご存知ですか。その中に、戦争遺跡を専門に調べている研究者たちがいます。その一人、滋賀県立大学名誉教授が送ってくれた資料があるので、成増部分のコピーを差し上げます。

過分なご講評をいただき、何とも恐縮です。
実は、掩体壕所有者が取材で「近辺にはまだ2つ3つ壕があると聞いた」と話しており、明るみでない壕はまだあるのかも知れない。戦争遺跡を専門に研究する方々がいらっしゃるというのも、興味深い。

岩本先生、ご講評下さった皆様、有難うございます。
これを励みに、さらに執筆活動に精進する所存です。
(3月27日)

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