« 2017年5月 | トップページ | 2017年7月 »

2017年6月

2017年6月28日 (水)

【7/2都議選】小金井市選挙区・選挙公報を都道計画の視点で読んでみた

都議選の投票日が迫ってきた。自宅に選挙公報が届いたので、小金井都道計画の視点から読んでみた。

■小金井市選挙区・選挙公報(市選管)
http://www.h29togisen.metro.tokyo.jp/election/pdf/32koganei-pub.pdf


●漢人あきこ候補(無所属)

見出しに大きく「”はけ”と野川を壊す東京都の道路計画は廃止に!」と明記している。

●朝倉法明候補(無所属、共産推薦・自由応援)

「7つのお約束」の1つに「はけの緑と自然を壊す道路計画は廃止を」と明記。

●うちこが宏候補(無所属)

記述なし。

●広瀬まき候補(自民公認)

記述なし。

●つじの栄作候補(都民ファ公認)

記述なし。

(総評)
小金井都道計画について、選挙公報で一番大きく扱っているのは漢人候補だ。漢人氏は市民団体のアンケート調査でも明快に見解を述べている。

朝倉氏。「7つのお約束」で小金井都道計画は上から6つ目。多くの市民と市議会が計画の見直しを求めているのに、6番目というのは少し残念だ。

つじの氏は小金井都道計画について「熟慮する」と述べるのみで、詳細な見解表明を避けている。

都民ファーストの会は「小池新党」だ。小池都知事は昨年7月の都知事選アンケートで「この優先整備路線に位置付けることが不適切だと判断される場合には、必要に応じ、見直しを進めていきたい」と回答したが、その後1年近く経つにもかかわらず、必要なアクションを起こしていない。

仮につじの氏が当選しても、小金井都道計画をめぐっては小池都知事に追従することにしかならなそうだ。

広瀬氏の主張は総花的で、都道計画を白紙に戻すような胆力は感じられない。

■東京都議選に向けてアンケートを実施しました。(はけの自然と文化をまもる会)
http://hake-bun.blogspot.jp/2017/06/blog-post_21.html

■小金井都道計画問題で小池都知事に質問してみた
http://saitoh-madoka.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-5589.html

2017年6月18日 (日)

過去・現在・未来、円環し重なり合う時間。映画「メッセージ」

巨大な宇宙船が突如、地球に同時多発的に現れるハリウッド映画。

その宇宙船の形がせんべい菓子の「ばかうけ」に似ていることもあり、ネットではネタ的に話題になっている。「でもハリウッドの宇宙船ものかあ。いかにも中身ゼロっぽいな」と思っていたけれど、実際に観てみると哲学的というか、奥が深いのですよ。謎解きみたいで最後まで集中して楽しめた。

ストーリーは省くが、宇宙人には時制、つまり過去―現在―未来という時間の流れがない、というのが作品の大きな特徴だ。それで文字は丸い輪っかの形をしており、水墨画のようでもある。円環のように時間がぐるぐる回っているようなイメージもある。

時間は過去から現在、そして未来へという一方向の流れがあるというのが一般的な時間の理解だ。ところが宇宙人にとって時間は過去・現在・未来が重なっている。だから宇宙人の言葉を理解することで人間も未来が見えるようになる・・・というのが、作品世界の骨格にある。

言葉は思考や世界観を体現している、との仮説があるそうだ。その説に従えば、宇宙人の言葉を理解すれば世界はそのように見える、というアイデアである。それで、映画を見ているうちに、「過去・現在・未来が重なり合う時間」が実在しているような気になるのが面白く、よくできているなあ、と思った。

もし本当に、現在の中に過去と未来が重なっているとしたら・・・。未来を選び取ることだってできるのではないか? 確か「君の名は。」にも似たようなプロットがなかったか。

だとすると、世界で同時多発的に「時制のない時間」というアイデアが面白がられる背景があるはずである。気候変動、資源の減耗、環境破壊、排外主義やテロの台頭などなど。文明、人類がこれからも危機を乗り越え、存続していけるのか。

もし過去・現在・未来が重なっているならば、未来のために今を犠牲にするのではなく、過去に縛られるのでもなく、「今を生きる」ことが、より望ましい未来につながっていくのではないか? そんなメッセージを作品から受け取った気がする。

2017年6月13日 (火)

都市に慣れるのはやめました

今日、仕事で都心に出たが、疲れた。そもそも雨模様の天気だったし、何より人の多さと都会の空気になじめない。理由もなくいらいらとする。帰りの中央線が信号故障で遅延していたのが追い打ちをかけた。

週休3日制にしてから、休みの日は山に登ったりサイクリングに行ったりもするが、家で好きな本を読みながらのんびり過ごしていることも多い。以前よりはゆったりと過ごすようになった。

都市部に出て疲れるのは、やはりせわしないからだろう。家にいるときとのギャップが大きい。引きこもりの人が外に出たがらない気持ちってこんななのか。違うかもしれないが、何となく分かる気もするのだ。

都市のせわしなさを刺激と感じて楽しめるのであればいい。けれども僕には人混みとか、都心の空気はやっぱり苦手だ。毎日のように都心に出ていればじき慣れるだろうが、無理して大都市のテンションになじむことはない、と割り切ることにした。

ところで都心部を走る電車内は広告であふれていて、全く落ち着かない。立っていても目線の高さに広告があって、いやでも視界に入ってくる。ぼけーっと窓の外を眺めることさえ難しいのには困ったものだ。

一方、例えば立川から西の中央本線の車両とかになると車内広告の量がぐっと減って落ち着く。その上ボックスシートなら、外の景色をのんびり眺めていられるので申し分ない。

2017年6月12日 (月)

見落とされる公助――『貧困クライシス』(藤田孝典著)

副題は「国民総『最底辺』社会」、帯キャッチは「もう誰も逃げられない 貧困が貧困を生む衝撃の現実」。おしっこをちびってしまいそうな迫力だ。

しかしこれらの言葉がハッタリや単なる脅し文句でないことは、本書を読めばすぐにわかる。所得の減少と雇用の不安定化で進んだ中流家庭の貧困化。長時間労働で疲れ切っているのに収入は増えない。家賃や外食費、医療費がかさみ、年金の支払いもままならない(低所得者には免除制度があるが、知らない人も多い)。

定年を迎えても生活費のために働き続ける人がいる。また、現役時代に貯金して老後に備えていた人でも、離婚や病気などをきっかけに貧困に転落していく。生活能力や近所づきあいなどを犠牲にして働いてきたために孤独におちいる人もいる。

全く救われない話だが、これらは個人の努力だけではどうにもならない、という点がポイントだ。『魂の退社』では「会社は卒業すべきもの」と説いている。それができる人はそうすればいい。セルフブランディングして自立して食べていければ、それもいい。しかし会社で働くしかない人もいる。

ごく単純に言えば、会社で働いて生計を立てている人を支える社会基盤が揺らいでいるのだ。自助努力は大事だとしても、それは責任の半分に過ぎない。社会として一人一人の生活をどう支えるのか、という問題意識が今の日本では弱いのではないか。本書を読んで強く思う。

例えば高い家賃を払わなくて済むよう、空き家の活用や家賃補助などが必要だろう。そもそも公的に住宅を保障するしくみが極めて弱い(公営住宅の抽選倍率を見よ!)。自己責任(自助)だけ問題にしても、結局は社会全体が疲弊し沈んでいくに違いないし、現に今そうなっているではないか。

社会保障の原資は税金だ。「貧すれば窮す」というが、安心がなければ自助もしようがない。誰もが安心して暮らせるような社会は自助やイノベーションの前提だ。そういう社会的合意がつくられていく必要がある、と思った。

2017年6月 2日 (金)

お金から「自由」になった人の境地――『魂の退社』(稲垣えみ子著)

図書館でリクエストしてから半年待ってようやく借りられた本。著者は元朝日新聞記者で、論説委員や編集委員まで務めた。著書で本人は謙遜しているが、キャリアを重ねてきたエリート記者といって差し支えないだろう。面白くかつ興味深かったので二度読みした。

トレードマークは、記者という堅い仕事にはいささかミスマッチなもじゃもじゃのアフロヘア―。アフロにしてから人にモテるようになったという。つまりは他人との垣根が下がったのだが、これが著者には「会社に依存しなくても人は生きていけるのでは?」との気付きのひとつになったのだそうだ。

アフロの話はさておき、大企業に勤めて高給を得るという「人もうらやむ」境遇にあって著者は、派手な消費を満喫する一方でこう考えた。このさき会社に依存したまま定年を迎えて、激減した収入を憂いるだけの老人になるのは嫌だ。社内の出世競争に敗れた時、それにわが身が耐えられるとも思えない・・・。

本書を読むと新聞記者の世界も壮絶なものがあると感じる。長時間の拘束、仕事ぶりの評価へのプレッシャー、同期が先に出世し、後輩の記者に追い抜かれる屈辱感、などなど。私も業界紙記者を逃げるようにして辞めたが、軟弱な私が3か月で音を上げたのもある意味当然のことだったなあ・・・と変なところで納得してしまった。

さて、にわか金満生活を「このままでは行き詰まる」と自省した著者は、香川への転勤などをきっかけに「お金を使わなくても幸せに生きられる」よう自己改造に着手する。有り余るモノに囲まれた今、「ある」ではなく「ない」ことの中に豊かさがある、と著者は気づく。

そして3・11と東電原発事故をへて、「電気があるのが当たり前」ではなく「電気はない(のが当たり前)」と視点をひっくり返し、少しずつ家電を手放していく。すると、それで不便ということはなく、それでも何とかなってしまった。「家電を手放して何とかなったように、会社を手放しても何とかなるのでは」。それで著者は50才を迎えて本当に会社をやめた。

著者が会社を辞めるまで、そして会社を辞めてから気づいた一連のことは、いわゆる「ダウンシフト」や「ナリワイ」と大きく重なる。経済成長と大量消費が行き詰まった今、会社でやりがいのある仕事ができる保証は限りなく低くなっている。この認識は鋭い。

会社は自分を成長させてもくれるけど、いつかは会社を卒業しなければならない。会社は一人の人間として生きていく力を身に着ける修業の場であって依存対象ではない、と著者は考えている。これも、ごく真っ当な認識だろう。

では人はなぜ安定を求めて会社で働くのかというと、結局のところそれは金に支配されやすい人間の弱さのゆえだ。しかし著者は、「お金は追い求めると逃げていくが、お金のことなどどうでもよくなると、お金の方から近寄ってくる」と言う。

この気づきは面白い。お金から自由になるとは、蓄財ではなく、生き抜く力を身に着けるということだ。つまりそれは家事をしたり世間話をしたり家の修繕ができたりとか、全く違う業種に好奇心を持って飛び込んで行ったり。それらをフットワークも軽く出来ているとき、人はお金から自由になっている。

ここに本書の普遍性がある。エリートのダウンシフトという限定した話ではない。人生とは、ロールプレイングゲームで主人公が経験値を高めていくように、いろいろ経験して生き抜く力を身に着けることなのだ。

« 2017年5月 | トップページ | 2017年7月 »

2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ